「進んでいる国」「遅れている国」
私たちは「進んでいる国」「遅れている国」という言葉を、いつからこんなにも当然のように使うようになったのだろう。
経済成長率、技術力、輸出高――そうした数字の上で優位に立つ国を「進んでいる」と呼び、そうでない国を「遅れている」と決めつけてしまう。
しかし、その尺度の中心にあるのは常に欧米的な物差しである。
便利さやスピード、物質の豊かさをもって“進歩”とみなす視点だ。
けれどもそれは、煩悩の量を競うような文明の錯覚ではないだろうか。
物質の多さを「進歩」と呼ぶ文化
欧米の近代化とは、科学と資本の進歩であった。
より多くのものを生産し、より速く運び、より多く消費する。
それを「進んだ社会」と信じて疑わなかった。
だが日本人から見れば、その姿はどこか幼い。
物を所有することが幸福だと思い込む人々は、まるで欲望を捨てられない修行僧のように、まだ解脱の途中にいるように見えるのだ。
物欲が満たされているかどうかで幸福度を測るのは、心の成熟を知らぬ証拠だ。
日本では古来、
「足るを知る」ことこそが、人としての完成であると教えられてきた。
日本の識字率が示す“文化の進歩”
18〜19世紀、ヨーロッパ諸国の識字率が20〜30%にすぎなかった時代に、
日本ではすでに80%以上の庶民が読み書きできたといわれている。
寺子屋、手習い塾、往来物、読み本――。
庶民の生活の中に文字があり、教養があった。
つまり、日本は“読み書きのできる民”が国を支えていた。
学問は支配階級だけのものではなく、生活の隅々にまで浸透していた。
それは、知識ではなく心を耕す文化だった。
だからこそ、「進んでいる」「遅れている」という言葉で文明の価値を語るのは、あまりにも浅い。
欧米が鉄や機械で進歩を語るなら、日本は人の心と美意識の進歩を歩んできたのだ。
解脱できない文明の影
現代の西洋社会は、今もなお“物の多さ”を幸福と錯覚している。
家を広くし、車を速くし、情報を増やし続けても、心の静けさは手に入らない。
それは仏教でいう「煩悩地獄」に似ている。
欲望を満たすたびに、また新たな欲が生まれる。
どれほど手に入れても、足りない。
人類は長い間、
「物質の進歩=文明の進歩」と信じてきた。
けれど、いくら物を増やしても、心は空洞のままではないだろうか。
日本の“遅さ”は、静けさの知恵
日本は、そうした意味で言うならば「遅い国」だ。
技術を急がず、結論を急がず、何度も検証し、何度も間を置き、
何度も空気を読み、何度でもやり直す。
それは、「遅い国」ではなく「慎重で完璧を求める国」であるだけだ。
たとえば、
茶の湯という独特の文化・美意識・心の美学。
湯が沸く音を聞き、
茶を点てる動作の一つひとつに心を込める。
この時間の流れは、西洋の効率の尺度では測れない。
「スピード重視」は、むしろ、感覚も心根も鈍らせる。
「慎重さ、静けさ」は感性を研ぎ澄ます。
この違いの、どちらが「進んでいる」「遅れてる」と決められるだろうか。
文明の成熟を分けるのは、物の豊富さ、派手さだけでは測れない。
昨今の“Amazon離れ”も文化の選択
近年、日本人の間でAmazonから離れる人が増えているらしい。
それは単なる経済行動ではなく、心の選択でもあるように思う。
どこの誰が売っているのかも分からない商品よりも、
顔の見える小さな店、信頼できる作り手から買いたい。
それは「便利さ」より「誠実さ」を選ぶということだ。
つまり、日本人は“物の多さ”より“関係の確かさ”を求めている。
これもまた、煩悩から距離を取る知恵ではないだろうか。
解脱とは、持たなくても安らぐこと

仏教でいう「解脱」とは、
何も持たないことではなく、
たとえ持たなくても、心が乱れない状態を指す。
欧米が、今も
「もっと」「速く」「多く」「広く」「新しく」と叫ぶのは、
まだ心が満たされていない証だ。
一方で日本は、
「もうこれでいい」と、静かに微笑む文化を育ててきた。
“進んでいる”とは、
他人に勝つことでも、経済で上に立つことでもない。
欲望に縛られず、心が自由であること。
それこそが真の文明の姿だと思う。
物の多さを競う文明よりも、心の豊かさを尊ぶ文化を。
「解脱できない文明」から、
「足るを知る社会」へ――。
それが、ほんとうの“進化”というものではないだろうか。

※この記事は、先月別ブログに書いたものです。別ブログを閉鎖したので、一部記事を移動させました。

