「進んでいる国」「遅れている国」という言葉に、私が違和感を覚える理由
以前、私は
「進んでいる国」「遅れている国」という言葉について、違和感を覚える理由を書きました。
最近、日本に対して
「日本は遅れている」
「教育を変えなければ、もはや先進国とは言えない」
といった言葉を耳にする機会が増えたように感じています。
特に印象的なのは、
30年ほど前までは後進国と呼ばれていた国々が、物理的・経済的に豊かになるにつれ、日本に対してそうした評価を下す場面が目立つようになったことです。
もちろん、経済的な成長や物理的な豊かさは、とても大切な要素です。
欧米を中心とした価値観では、国の「進歩」や「成熟」は、GDPや利便性、所有物の量など、目に見える指標で測られることが多いのも事実でしょう。
しかし、日本は本来、
それだけで「豊かさ」や「成熟」を語る国ではなかったのではないか、
私はそう感じています。
「足るを知る」という言葉があるように、
日本には、物の多さや金銭的価値だけでは測れない、
心のあり方や、人との関係性を大切にする文化がありました。
私自身、育った環境から学んだこと、経験したこと
なぜ私は、ここまで強く「お金や物だけを物差しにすること」へ疑問を持つようになったのか。今日は少し、その背景について、少しお話ししたいと思います。
※このイラストは、実際の写真をAIでイラストにしたものです。女の子、ちょっとかわいすぎます。実際は、弟と喧嘩してふてくされた顔をして写っていたので「笑顔にして」の指示で、こんな可愛い女の子になりました💦
幼い頃に見ていた「大人たちの優しさ」
私は、生まれたときから、昭和の言い方をすれば「お手伝いさん」と呼ばれる女性が家におり、運転手のいる環境で育ちました。
入れ替わり立ち代わり、朝から、手土産をもってやってくる街内外の商売人、政治家、時には記者などもいました。(この記者についてはいずれ書きます)
父の部下や取り巻き、お手伝いさんや運転手はもちろんのこと、
家業で土建屋を兼業していたので、社員や日雇いの作業員たちにも、よく遊び相手をしてもらいました。
会社の事務員や社員だけでなく、当時は、季節労働者の出稼ぎの作業員もいました。中には流れ者と呼ばれることもあった訳アリの日雇いで、現場が一つ終われば去っていくフーテンの寅さんのような気さくなおじさん、お兄さんもいました。
「飯場(はんば)」と呼ばれる現場近くの寮兼食堂には、作業員のためのご飯を作るおばさん、お姉さんもいました。知り合いや近所の大人たちも、皆、親切に接してくれました。

大人の社会の二重基準を、しっかり知り始めたころ
表面的には、
多くの人に大切にされて育った子どもだったと思います。
しかし、10歳を過ぎた頃から、
私は次第に、あることに気づき始めました。
それらの優しさの多くが、
必ずしも「私という人間」そのものに向けられていたわけではない、
ということです。
当時、小さな地方都市で市議会議長をしていた祖父、
そして父や母との関係性を意識した、
いわば“付き合いの一部”としての親切であることを、
子どもなりに感じ取るようになっていました。
中学生になる頃には、
すべてがそうだとは言いませんが、
その多くが、私個人ではなく、
私の背後にある立場や家との関係によるものだと、
かなりはっきり理解するようになっていました。
18歳で感じた「お金の虚しさ」と「残酷さ」
さらに18歳、高校を卒業する頃になると、
私はもう一段、現実をはっきりと見るようになりました。
それは、
父や祖父、母といった個人への配慮ではなく、
そこにある「お金」や「力」そのものへの迎合でした。
お金は、生きていくうえでとても大切です。
そのことは、今も変わりません。
けれども、
お金が介在した途端に、
人の言葉や態度がここまで変わるのかと、
驚くような場面を数多く目にしてきました。
過剰な持ち上げ方、
必要以上に距離を詰める態度、
状況によって簡単に変わる評価。
そうしたものを目の当たりにするたび、
私は次第に、お金の虚しさや残酷さを感じるようになっていきました。
いつごろからか、大人たちをみながら、漠然と「人間の本質的な尊さとは」というものが、私の中で、整理されていくものがあったように思います。
社会の縮図、『この人間社会』のピラミッドのトップの方から底辺の方まで、幼いころから、同時に接してきたことが、私のこのような視点の形成につながったと思っています。
お金と権力は、人間の成熟とは別のもの
お金や権力を持つこと自体が、悪いわけではありません。
それらがあることで、生活が安定し、選択肢が増えるのも事実です。
しかし、
それを唯一の物差しにしてしまったとき、
人は「もっと、もっと」と求め続けるようになります。
満たされることのない欲の中で、
際限なく追い続け、
気づいたときには、どこへ向かっているのか分からなくなってしまう。
そこに、
人間的な成熟はあるのでしょうか。
私の一族と関わりのあった人の中にも、
もちろん、素晴らしい人間性を持った方はいました。
そして、そういう方に対しては、
父も母も、自然と一目置いていました。
富や肩書きではなく、
人としてのあり方をきちんと見ていたのだと思います。
本当に「進んだ国」「成熟した社会」とは何か
これは、国についても同じだと感じています。
富や支配力だけで
「進んでいる」「成功している」と測るなら、
その先に待っている未来は、
必ずしも良いものではないのではないでしょうか。
繰り返しますが、
お金は大切です。
ないより、あったほうが生きやすいのは間違いありません。
ただし、
それが唯一の基準になってしまったとき、
人も社会も、少しずつ歪んでいくように思えてなりません。
今の社会は、
お金や数字でしか価値を測れなくなりつつあります。
そして人は往々にして、
どん底に落ちないと、
本当に大切なものの価値に気づけない。
それが人間の愚かさ、
あるいは避けられない性質なのかもしれません。
それでも私は、
本当の進化や成熟は、そこにはない
そう考えています。


